今回から、新たな視点に立ち「日本農業とは何か」という基本に戻り考えていきます。基本に立ち返るのは、国内で食料を自給するためには大規模農業が必要だと漠然と感じている国民が多いからです。
確かに、国は農業人口が減少するのでITを活用した無人化農業などの未来を描いています。その根底には、日本農業を「単なる生業」ではなく、「産業としての農業」として育てたいとの考えがあるようです。こう考える背景には、日本農業の未来をアメリカ型の大規模農業にしたいとの思いがあるようですが、アメリカ農業、ヨーロッパ農業、ブラジル農業、アジア農業と海外の多くの農業を見てきた筆者から言えば、日本農業を「産業としての農業に育てる」には少し無理があるように思えます。さらに言えば、日本の農業には企業的農家、家族経営農家、中山間零細農家、後継者のいない高齢者農家、兼業農家などが存在しており、これらの農家が、稲、野菜、果樹、牛など様々な農畜産物を様々な経営規模で育てているからです。
今回の「農の風景」では、「日本農業とは何か」を考えるために、まず、日本農業の様々な問題を我が国の農業経済学ではどのように考えてきたのかを整理し、その後で、これらの問題を政界、財界、官僚などはどのように扱ってきたのかをお話します。そして、最後に、国が掲げる「産業としての農業」と「米、果物、野菜、畜産経営を現在営んでいる農家たちの考え」とを比較することにより「日本農業とは何か」を考えていくことにします。
はじめに
多くの日本人に「日本の農業について知っていますか?」と質問すると、大部分の人たちの頭の中には、米やトマトや牛の姿が浮かぶことでしょう。さらに、「日本国内で食料は自給したほうが良いと思いますか?」と質問すると、多くの国民は「できればその方が良い」と答えるでしょう。
しかし、その一方で、国民の多くは、米の価格が上昇したり、異常気象でスーパーの野菜売場のトマトの価格が上昇し、また、きゅうりが消えてしまった状況に直面すると大騒ぎします。このような国民の行動は、命の源泉である食料・農産物がどのように生産され、どのように輸送され、スーパーに並ぶのかを知らないことからきているのです。また、多くの国民は、これらの農産物は、いつも、消費者の目の前にあることが当然のように思っています。さらに、多くの国民は、日本農業は高齢化による後継者不足で壊滅の危機にあることを知りません。
このような状況の中で、国は、令和5年6月に「食料・農業・農村基本法」を見直し、食料安全保障の強化、農林水産物・食品の輸出促進、持続可能な農業を主流とする農林水産業のグリーン化、生産性の高い大規模農業の確立を目指すスマート農業を四本柱とする政策を示しました。しかし、この新たな四本柱と農村の現場の間には、大きなミスマッチが存在しているように感じます。このミスマッチは、農業の定義が政治家・官僚たちと現場の農家では全く異なっているとこらから来ていると思います。
簡単に言えば、政治家や官僚は法人による大規模農業を第1次産業の農業として捉えているのではなく、第2次産業の1つの産業として考えているのに対し、農業を経営している大部分の農家は、農業を家族経営として捉えているのです。この2つの考え方の根本には、「水と油」くらいの違いがあるのです。前者は、農業を社会・経済活動の根本原理―利潤極大化を目標とする市場原理―が働く企業として捉え、そのままの形で、地域の農業・農村社会に応用・展開できると考えているのに対し、後者は、農業は土地所有、自然条件、水利権などに加え、輸入肥料、輸入飼料、農機具など他産業に依存しなければ成り立たず、利潤極大化を目標とする市場原理だけでは成立しないと考えているのです。
国は、農業の高齢化と後継者不足に対応しようと大規模化を唱え様々な政策を実施していますが、農業センサスをみると、全農家に占める10ha未満の割合は94.6%(令和2年)となっており、日本農業は未だ家族経営が中心なのです。農業の現場を頻繁に歩いている筆者から見ると、現存している農業、それを実践している農家には、それぞれの家の事情、集落の事情があるのです。国が推進する企業的大規模農業が成立するためには、コンピュータのように、一旦、「家の事情や集落の事情をリセットする」とのボタンを押すところからスタートすることが必要となります。しかし、農業にはリセットボタンは存在しません。さらに、リセットボタンが存在すると仮定して、そのボタンを押すと、その瞬間、企業的大規模農業が出現する前に、日本には農業がなくなってしまうのです。しかし、現実は、それらの地域には農家が存在し農畜産物を生産しているのです。
一方、国は地域の人口減少をとめようと「地方創生」が必要だと訴え、地域活性化対策など様々な政策を準備しています。しかし、他方では、前述した農業後継者不足、農業就業人口の減少を前提とした大規模農業を推進しているのです。つまり、一方では地方における人口減少を止めようとしているのに対し、他方では、地方における農業就業人口の減少を前提とした政策を行っているのです。この地域における人口減少を巡る矛盾した国の政策の中に農業問題の難しさが見えているのです。
それでは、なぜ、このような矛盾が生じてしまうのでしょうか。誤解を恐れずに言うと、それは、
―日本経済そのものが停滞している中で、政治家・官僚を含め国民の多くは「過去の栄光を再び」と言うドンキ・ホーテ的な「見果てぬ夢」を諦めきれず、効率的に利益が獲得できる理想的な社会システムの構築が必要であり、そのためには、利潤極大化を目標とする市場原理が万能の処方箋だと信じているーからなのです。
しかし、この理想的な社会ステムが成立しにくい農業・農村社会にこそ、行き詰まった日本経済、日本社会の新たな方向が見えてくるのです。
稲田宗一郎(いなだ そういちろう)