今年の4月に十勝清水町を再訪した。十勝清水町には渋沢栄一が設立した十勝開墾会社がある。渋沢は1898年に北海道庁から「蝦夷地開拓」の命を受け、「十勝開墾合資会社」を現在の清水町熊牛地区に資本金100万 総面積12100haの農場を設立した。当初は、蝦夷地の自然が立ちはだかり開拓は困難を極めたが、1907年の鉄道開通が転機となり経営はようやく好転した。最盛期は耕作地8000haになり、明治製糖への経営権の譲渡を経て1934年まで続いた。
十勝開墾会社として使われていた建物が今も熊牛に残っているとのことだったので、今回、友人のYさんに案内して貰った。現在、その建物は酪農を営んでいる澁谷牧場の畜舎として使われている。
澁谷さんに会い十勝開墾会社の横で話を聞いた。
「酪農は飼料代が上がって大変ですね」
「大赤字だ。清水でも何軒かの酪農家がつぶれた」
「テレビニュースで撤退する酪農家が多いと報道されていましたが清水町もそうですか?」
澁谷さんは、「そうだ」と頷き、
「でもさ・・・・撤退出来る酪農家は良い方さ」
と言った。
「撤退出来る酪農家は良いって、どういうことですか?」
「撤退できるってことは、農地、牛、機械、設備などを売却すれば借金が返せるから廃業するのさ・・・・」
「えっ、それって、廃業し資産を売却しても借金を返せない酪農家もいるってことですか?」
「悲惨なのは廃業しても借金を返せない酪農家で、彼らはやめたくても酪農を続けるしかない。融資した農協は、少しでも借金を返済して欲しいと考えているからな」
「それは大変ですね。でもなぜ、酪農家は返せないほどの借金をするのですか?」
「酪農で労働生産性を高めるためには様々な機械投資・設備投資が必要なんだけど、その金額が高額なんだ。また、畜舎一つをとっても、補助金を活用するとなると、俺から見ても立派すぎる近代的な畜舎でないと補助金がおりないんだ」
「その話は聞いたことがあります。何年か前に、那須の酪農家、この酪農家は経営状況が極めて良いのですが、そこの畜舎を見たら、ボロ屋でみすぼらしい畜舎なのです。僕が驚いていると、その経営者は、牛は寒さに強いからこれで十分なんだ。畜舎に金をかけるなどアホらしいって教えてくれました」
「その酪農家は正しいよ。牛は寒さには強い。また、酪農は牛を飼って乳をうる商売だけど、仕事自体は、牧草を刈り丸めて運ぶ輸送業だからね」
「輸送業ですか?」
「そうさ、ベーラーという農業機械を使って刈り取った牧草をラップして発酵させる。そのために、大きな農業機械が必要なんだ。これが、また高い」
と澁谷さんは言った。
「ところで、渋沢の十勝開墾会社って、この畜舎ですか?」
と僕は横にある建物を指さして言った。
「そうだ、さっきの那須の酪農家の話じゃないが、100年前の建物でも牛にとっては十分なのさ」
と澁谷さんは言った。建物を覗いてみるとかなりの数の乳牛飼われていた。
挨拶をして帰る時に、畜舎の裏手をみると大きな農業機械が何台も置いてあったのが印象に残った。
その後、Yさんの案内で渋沢が建設を指示し建立された「寿光寺」を訪ねた。運が良いことにお寺の奥さんがおられたので話しを聞いた。
「この寺は、1915年に十勝開墾合資会社(後の十勝開墾株式会社)が熊牛農場内に集会所兼説教所を建てたのが始まりで、1926年に地元で寺院建設の機運が高まり「寿光寺」と呼ばれるようになり、その後、十勝開墾株式会社より1.5ヘクタールの敷地及び建築資金と主要材料が寄附されたほか渋沢栄一などの寄附を得て、寺院の建設工事が始まりました。また、渋沢栄一の雅号「青淵」を寺の山号(さんごう)に戴きました。寺の入口には、渋沢の雅号「青淵」を山号とした渋沢直筆の「青淵山寿光寺」の扁額が掲げられています」
と説明してくれた。
東京に戻り、私は、論語と渋沢栄一の教えから「いろはがるた」を作った人に頼まれて、書き上げた小説「渋沢翁からの贈り物」を澁谷さんと寿光寺の奥さんに送った。
稲田宗一郎(いなだ そういちろう)