萩の酒蔵『東洋美人』での取材後、思い切って隠岐の島を訪ねた。隠岐の島は後鳥羽上皇と後醍醐天皇が流された島だ。後鳥羽上皇は1221年に鎌倉幕府倒幕の兵を挙げたが失敗し、現在の海士町に流された。後醍醐天皇は1331年に笠置山で倒幕の挙兵をしたが捕えられ、隠岐の島(島後)に流された。
海士島では隠岐神社に近い中村旅館へ宿泊した。その旅館で夕食の時に徳島博物館のMさんという学芸員と知り合い、翌日の午前中、後鳥羽上皇の隠岐神社、後鳥羽上皇御火葬塚、資料館、村上家を見学した。Mさんは知識が豊富で、鳥居の形には神明系と明神系の2つがあり、島居の笠木の下にある島木が柱からでているのが明神系で、出ていないのが神明系らしい。隠岐の島は孤立した島であったので公家文化のなごりがあることや1609年公家の飛鳥井雅賢が、朝廷内での密通(不倫)事件に関係し隠岐に流され生涯を終えたことなどを教えてもらった。
その日の昼、フェリーで後島の西郷港に渡り隠岐国分寺を見学するというMさんと別れ、僕は、港で隠岐牛のランチを食べた。午後は、一人で後鳥羽上皇の上陸地点、上皇が座った石、泊まった神社などを見学した。偶然、島の人と話す機会があり、今でも、後鳥羽上皇は隠岐ではあがめられていると話してくれた。
Mさんと別れた翌日の夕方、僕も後島の西郷港に渡った。その翌日の朝、自転車で隠岐の牛突きを見学した。牛付きとは、2頭の牛が対峙し角で押し合い、押し込まれた牛は負けるというもので、小牛が角を突き合わせている姿を見て後鳥羽上皇が喜んだことから、島民が上皇を慰めるために始めたと伝わっている。このように、隠岐には高位の者が流されたことから、京都文化が隠岐に入り独自の文化が生まれていたと言われている。
この牛突きには番付があり、7歳の牛が横綱、6歳の牛が大関など牛の年齢で番付が決まっているという。なぜ、そうなっているのかを牛突きの綱を操っている人に聞いたところ、牛突きで負けた牛は、戦意喪失の状態になり2度と戦う気力がなくなるので、引退し肉になる運命らしい。そこで、年齢順に上から横綱、大関にしているらしい。引退した牛は関係者で食べるらしいが、その牛を育てた人は、愛着があり、決して肉を食べないとの事だった。
その後、牛突き場の隣にある隠岐国分寺に行った。住職と話をして、蓮華会舞のビデオを見せてもらった。蓮華会舞は平安時代から鎌倉、桃山期のもので、能楽や神楽と異なるインドや中国の大陸文化の流れをくむ伎楽・舞楽の趣が濃く、大陸から入って全国の主な寺院で舞われていた舞楽が隠岐に伝わったものだ。子供達も参加しているのを見て驚くとともに、伝統が受け継がれていくことの素晴らしさをあらためて実感させられた。
蓮華会舞には「麦焼き」と言う農作業を模した舞がある。この舞は農作業の動きを素朴に表現したものだ。「麦焼き」後の麦わらは肥料の代りになるから、「麦焼き」を舞うことにより五穀豊穣を祝ったのに違いない。
隠岐は古代から黒曜石の産地だった。半島東側の斜面は、冬季の北西の季節風を遮る役目をしており、東郷地区には縄文、弥生時代の宮尾遺跡がある。おそらく、古代から隠岐の島には多くの人が住み、また、出雲文化の影響化におかれ、古くから麦やコメを作っていたのに違いない。その名残が蓮華会舞の「麦焼き」に繋がっているのかもしれない。
こんなことを考えながら、国分寺の裏手に回ると後醍醐天皇の行在所跡を記す石碑が建てられていた。この石碑に一礼し、住職にお礼を言って、日本に2つしか残っていない駅鈴をみるために玉若酢命神社の隣の億岐家宝物館に行った。駅鈴とは、646年に駅馬・伝馬の制度が設置された時に使われた鈴で国の重要文化財に指定されている。
帰りに玉若酢命神社に寄り、掃除をしていた人に話かけたところ、隠岐には公家言葉として、今でも、トイレをお箱所と地元の老人たちは読んでいるそうで、会話の中でも、「失礼、ちょっとお箱へ」などと老婆は言ったりするようだ。おそらく、本格的に調べれば、まだ、かなりの公家言葉が残っているように感じた。
稲田宗一郎(いなだ そういちろう)