南房総 千倉のお花畑を訪ねて

南房総 千倉のお花畑を訪ねて
千倉館
お花畑

 

3月になり春めいてきたので館山の先の千倉温泉千倉館に出かけた。千倉館は松本清張が40日間滞在し小説『影の車』を出筆した旅館だ。売れない物書きの稲田は、大作家に気分だけ真似しようと2泊の予定で出かけた。
1日目はゆっくりと温泉に浸かり、「さざえ」や「あわび」などの海の幸で一杯やり、2日目は海岸を散歩し、料理の神様を祀った高家神社に参拝しながら温泉に浸かり、ゆっくりと次の小説の構想を考えて過ごした。3日目は、タクシーで千倉館近くの白間津花畑に行った。時期が良かったのか花畑にはたくさんの花が咲いていた。

南房総の花卉栽培の歴史は古く南北朝の時代にさかのぼるらしい。言い伝えによると、第35代花園天皇の姫が淡路島に向かう途中に遭難し、南房総の海岸に船が打ち上げられた時に、姫は黄色の花の咲く木を村人達に分け与えたのが花づくりの始まりだといわれている。

この話は出来すぎだが、江戸時代の中頃には江戸の町で多くの水仙が販売されていたという記録があり、また、寛政4年の11月に、当時の老中松平定信が安房の国を巡視した時の紀行文に「保田あたりで水仙が多く栽培されている」との記録も残されている。さらに 明治時代になると球根切花栽培や輸出用の球根栽培が始まり、明治35年に牡丹を栽培し、びわ問屋に出荷したとの記録が残されているので、昔から、南房総は温暖な気候を活かした花の産地として有名だったらしい。

第2次世界大戦末期、南房総では、米軍の上陸にそなえて軍隊が配備され、花作りは禁止された。花の球根や種子は焼却され花農家は「非国民」と呼ばれた。それに代わりに、花畑には、次々とサツマイモや麦が植えられたという。そんな時代に、花を愛したある農家の女性は、「花は心の食べ物」として、人里離れた山奥に種苗をそっと隠したという。

 

<国に対するささやかな抵抗であった>

そのおかげで、南房総では戦後すぐに花作りが再開された。

この話を題材にして、田宮虎彦は、南房総を舞台に花を守り愛した実在の女性の姿をモデルとした小説『花』を書いた。この小説は、1989年に「花物語」というタイトルで映画化された。

白間津花畑で花をつくり花畑を管理しているお婆さんに話をかけた。
「きれいなお花畑ですね。この花畑いつ頃からですか?」
と聞いた。
「そうさな、35年か40年前からさ。昔は、花畑はもっと綺麗だった。今は、花造りを止める家が多い」
と言って、周りの何も植わっていない畑を指さして言った。

 

花畑の中の耕作放棄地

「耕作放棄地・・・ですか?」
と僕が聞くと、お婆さんは大きく頷き、
「俺も、来年、花造りを続けるか分からない」
と言った。
「後継者はいないのですか?」
「いる訳はないよ。花畑を維持しているのは、みんな70歳以上の婆さんで、いつやめてもおかしかないさ。自分も含めここの婆さんたちは、元々は海女で、海女をやりながら花を作っていた。昔は、それで、ソコソコ暮らしていた」
と懐かしそうに言った。

僕は、その話に驚くとともに、
―ここにも後継者がいないのだー
と思った。そう思いながら、周りを見回すと所々に耕作放棄地があった。
もう少し、時が流れれば、この花畑もなくなるかもしれないと思った。

人間は確かに進歩し豊かになり、社会は明らかに便利になった。
<南房総へも東京駅八重洲口から高速バスで東京湾を横断しわずか2時間なのだ>

しかし、その豊かさと便利さの見返りに、人間は、戦時中に花を守り続けた女性の心の中にあった何かを失ってしまったのではないのだろうか。

 

【プロフィール】
稲田宗一郎(いなだ そういちろう)
千葉県生まれ。小説『夕焼け雲』が2015年内田康夫ミステリー大賞、および、小説『したたかな奴』が第15回湯河原文学賞に入選し、小説家としての活動を始める。2016年ルーラル小説『撤退田圃』、2017年ポリティカル小説『したたかな奴』を月刊誌へ連載。小説『錯覚の権力者たちー狙われた農協』、『浮島のオアシス』、『A Stairway to a Dream』、『やさしさの行方』、『防人の詩』他多数発表。2020年から「林に棲む」のエッセイを稲田宗一郎公式HP(http://www.inadasoichiro.com/)で開始する。

農の風景カテゴリの最新記事