先日、古い文書箱を整理していたら、大分県杵築市のミカン農家の友人Oの手紙を見つけた。日付を見ると1983年9月となっていた。Oは某国立大学農学部の修士過程を卒業した農学修士のミカン農家だ。
Oが暮らしている大分県杵築市は国東半島にある町で、みかんのブランド愛媛の「日の丸みかん」の産地と豊後水道をはさんで向かい合っており、この立地に目をつけて、国は昭和40年代の構造改善事業でミカン園の新造成をしたのだ。
しかし、造成が完成した40年代後半はすでにミカンは過剰になっており、新規参入した農家・農業法人の多くはみかん生産から撤退した。
―Oが就農したのは、その動きが一段落した昭和50年代半ばだったー
Oは、農業経済学の修士過程を卒業し就農した。村に戻り農協青年部に入った。
青年部のリーダーは、
「Oよ、口で理屈を言うのは簡単だけどな、口と理屈じゃミカンはできないよ。稼いでから物を言え、そしたら話を聞いてやる」
と冷たく言った。
Oの家はミカンの専業農家だったが、父親が「イオン水農法」を始めていた。この農法は、電気分解した水をミカン園に散布し農薬を使わない農法だった。ミカンにイオン水を与えると農薬や肥料を減らすことができるとの事だった。
《Oの父親が「イオン水農法」を始めたのは農薬散布で健康を少し損なったからだ》
昔、Oの家に泊まった時のことだ。Oは歓迎会を開いてくれた。
当時、僕はピースを吸っていたが、Oは、
「稲田さん、ピースに、この電極を差し込みチャージすると、ニコチンの害が減る」
「酒を飲んだ後に、イオン水を飲めば2日酔にならない」
「締めにイオン風呂に入れば完璧だ」
などと、真面目な顔で少し笑いながら言った。
《翌朝、確かに2日酔はなかったが、それがイオン水のおかげかは今もって分からない》
父親の後を継いだOは、マーコットオレンジと言う新品種を導入した。やや小粒のこのミカンは、糖度が高く濃厚な甘味と適度な酸味があり、また、果皮は薄めで皮がむきやすかった。
Oは先ほどの手紙で、
「マーコットオレンジのハウス栽培は、今年が初結果で、1トン以上の収量を見込んでいるのですが、この品種は未だ栽培技術体系ができておらず、手探りの状態で試行錯誤しながら、来年の3月に初出荷するようになります。人のやらない事を行う事は大きな精神的疲労を伴いますが、毎日が緊張していて、やりがいがある事も確かです」
と書いていた。
《Oが取り組んだマーコットオレンジは、タネが多かったせいかブランド品種にはならなかった》
Oは、その後、ハウスミカンを導入し、普通温州と組合せた経営に移った。当初は、このハウスミカンは価格が高く、Oの経営の柱になった。しかし、そのハウスミカンも、1993年の1430haをピークに減少を続け、2018年には403haとなってしまった。
《柑橘類、いや、農産物は、売れ筋商品になっても、他産地がそれをまねて作付面積を増やすのでアッーと言う前に価格が下落してしまう》
そのころだったと思う。福岡で仕事があったので、久しぶりに日豊本線に乗り、杵築に向かい、Oのミカン園に行った。斜面のミカン園まで僕を案内したOは、日焼けした顔で、
「先輩、二人の子供を、ミカンで大学に行かせるのは大変だよ」
と、海を指差し、
「ラジオを聴きながら、暖かい光と風をうけながらミカン畑で作業しているとき、ふと手を留めて顔を上げると、大分湾が見える。その風景をかみしめながら、もうひと頑張りだって自分に言い聞かせるんだ」
と、笑いながら言った。
<その後、何年かが過ぎた>
<Oからは毎年12月にミカンが届く>
<僕は、毎年、Oにお礼の電話をかける>
「先輩、子供たちもそれぞれ独立し、今は、夫婦二人きりだ。これからは、のんびりとうまいミカンができる園地を中心にミカンをつくります。今度、また、Iさん達と一緒に杵築に来てください。地元の日向屋で『おこぜ』料理をやりましょう」
Oは電話口で元気な声で言った。
《Oの声は、なぜか、僕を清々しい気持ちにさせてくれた》
―そうだ日向屋に行って『おこぜ』を食べよう―
僕は心の中で思った。
稲田宗一郎(いなだ そういちろう)